有栖川宮記念公園

公園/緑地

大使館がひしめくセレブの街にある、起伏に富んだ日本庭園

10数か国の大使館が周りに点在し、日々国際色豊かな人々が行き交うこの界隈。小高い麻布台地にあるため、同じ園内でもその景色は場所によってさまざまな表情を見せる。ここには都会の喧騒を忘れる非日常空間がある。

広尾口を入ってすぐの池。初夏には満開となる花菖蒲園の奥には石造りの太鼓橋を望める} 広尾口を入ってすぐの池。初夏には満開となる花菖蒲園の奥には石造りの太鼓橋を望める

子どもたちの明るい遊び声が響く園内

江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷だった場所に、1896年(明治29)有栖川宮威仁親王の新邸御用地となり、有栖川宮家が廃絶後、大正時代に高松宮家がこの地を継承した。その後有栖川宮没後20年目にあたる1934年(昭和9)の命日、児童福祉と教育の目的で高松宮殿下が東京(当時は)府に寄贈したという、天皇家縁の記念公園である。麻布台地の起伏に富んだ地形を生かした公園であるため、東側の高台から西南側へと大きく傾斜し急坂も多く、散策していると息が切れるほどだ。

広場には、この公園のシンボルである有栖川宮熾仁親王の騎馬像が} 広場には、この公園のシンボルである有栖川宮熾仁親王の騎馬像が

園内には渓流が流れ大小2つの滝があり、その水は渓流となって南西側にある広尾口近くの池へと流れて行く。公園という名前ではあるが、地形として1つの丘であると感じる、軽い山登りに近い変化に富んだ造りになっている。東側の高台には広場があり、有栖川宮威仁親王の銅像のかたわらで子どもたちが遊べる滑り台や、遊具が設置されていて日中はとても賑わっている

維新の世の時代に翻弄された有栖川宮熾仁親王

1903年(明治36)、近代彫刻の先駆者といわれている大熊氏広(うじひろ)氏によって作られたこの銅像は、当初三宅坂にあった参謀本部前から道路拡張工事にともなって、有栖川宮に縁のあるこの地に移設されたものだ。戦争中多くの金属が軍によって接収されたなか、このクラスの大きさでは当時のまま残された貴重な銅像だという。モデルの有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)は皇女和宮様の元婚約者であり、戊辰戦争時は東征大総督、西南戦争後は陸軍大将として活躍。数奇な運命をたどった人物として知られているほか、1868年(明治元)の軍歌『宮さん宮さん』に歌われたモデルでもある。

庭園内には小川が流れ、夏でも街なかより数度涼しい空気が流れる} 庭園内には小川が流れ、夏でも街なかより数度涼しい空気が流れる

春には梅が咲き乱れ、11種類もの桜のスポットも点在} 春には梅が咲き乱れ、11種類もの桜のスポットも点在

園内に点在する、高名な彫刻家による像の名所

有栖川宮記念公園には3体の像が設置されているのだが、これがどれも侮れない作品である。1つ目は先述した公園の中央広場にある有栖川宮熾仁親王の騎馬像、2つ目は同じ広場の東寄りにあるこの新聞少年像、そして3つ目は東の高台の広場にある笛ふき少年の像だ。新聞少年の像は当時、貧しかった新聞配達の少年たちに、誇りを持たせ励ます目的で設置された。新聞少年の像自体は全国に沢山あるのだが、こちらが第1号だという。設置の日には全国から人が集まってこの像を取り囲み、当時の流行歌であった「新聞少年」を合唱し大いに盛り上がったとか。笛ふき少年の像は、東京都立中央図書館脇の東寄りの広場に設置されているのだが、作者は秋田県の田沢湖にある有名な、たつこ像の作者でもある舟越保武氏だ。

新聞少年の像の作者は東洋のロダンと呼ばれた朝倉文夫氏の次女で、彫刻家の朝倉恭子氏} 新聞少年の像の作者は東洋のロダンと呼ばれた朝倉文夫氏の次女で、彫刻家の朝倉恭子氏

高名な作者の作品がさりげなく飾られている麻布十番方面の広場は春には桜が見事だ} 高名な作者の作品がさりげなく飾られている麻布十番方面の広場は春には桜が見事だ

スポット詳細

住所
東京都港区南麻布5-7-29 map map 地図
電話番号
0334419642
駐車場
なし

情報提供: ナビタイムジャパン

アニメスポット情報

※ナビタイム調べ

このスポットを紹介している記事

アクセス

map map 地図

最寄り

          周辺の駅はありません。 周辺のバス停はありません。 周辺の駐車場はありません。 周辺のインターチェンジはありません。

          このスポットを共有

          back

          クリップボードにコピーしました